国特別史跡 百済寺(くだらでら)跡と禁野本町(きんやほんまち)遺跡

<午前 百済寺跡と禁野本町遺跡 百済王氏と聖武天皇>

講師 元枚方市文化財研究調査会  下村 節子 先生

下村先生から、はじめに国特別史跡百済寺跡と禁野本町遺跡の説明があり百済寺をだれが建立したのかとして百済王氏についての講義が始まりました。

(1) はじめに

 国特別史跡百済寺跡

 ・ 国特別史跡百済寺跡は、枚方市中宮に所在

 ・ 塔頭が失われてから 1000 年以上、七堂しちどう伽藍がらんを備えた寺がそのままの状態で

 残されている稀有な例―国特別史跡

 ・ 国特別史跡 ― 大阪府下では百済寺跡と大坂城跡の 2 ヵ所だけ

 ・ 昭和 42(1967)年に全国初の史跡公園として整備された。(大阪府が調査)

禁野本町遺跡

 ・ 百済寺跡周辺の禁野本町遺跡では、都と同様に、南北道路と東西道路が交差する町並みが形成                                              (碁盤目道路の町並み)

(4)摂津の「百済寺」

「難波に居らしむ」 どこか ・・・・・百済郡の存在

『摂津名所図会』に「延喜式曰く摂津 国十三郡 住吉・百済・東生・西成・ 島上・島下・豊島・河辺・武庫・兎原・八部・有馬・能勢」とある。(太字は現在大阪市域)

百済 今は住吉 東生の二郡に入る 南田辺 北田辺 ・・ 平野等

 

百済寺。百済野の中にあり。今、字を 堂ヶ芝 どうがしば と云う

『摂津志』東生郡 古 蹟の条に廃百済寺 天王寺の東 旧百済郡に在り

   細工谷 さいくだに 遺跡の発掘

 

   和同開珎の枝銭 40 数枚の和同開珎 銅製品 鉄製品 工具類

   -金属製品の工房の所在(遺構は未発見)⇒「細工谷」という名の由来

   井戸の中から 「百済尼」「百尼」「尼寺」墨書土器と飛鳥時代の瓦

   百済尼寺 が 所在 ➡ 近 くに 僧寺 が 所在

   南東約400mに所在する「堂ヶ芝廃寺」は難波の 「百済寺」

 

  ・「堂ヶ芝廃寺 どうがしばはいじJR桃谷駅構内に段あり 南東端か

  ・大量の瓦 発見、遺構は未発見

  ・かつては、方形柱座を浅く彫り込んだ 巨大な塔心礎も残っていた。

      ⇒日本に例なし。 扶餘 ぷよ の軍守里廃寺の地下式心礎に類似

(5)持統天皇のとき、 朝廷より「百済王くだらのこにきし」という氏族名賜る

(6)百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)の活躍

  天平勝宝元(749)年、陸奥守百済王敬福

  陸奥国小田郡より出た黄金 900 両を献上(国産初の金)

     (黄金900 両)

    古代の度量衡では、重さについては唐の銭 1 枚を基準としている。

    銭の重さが少しずつ軽くなっていくと、それに従って基準も変化していく。

    749年頃は、 銭 1 枚 は、 4.1~4.2グラム  銭10 枚 で 1 両

    したがって黄金 900 両 は、 36.9~37.8キログラム

    百済王敬福は、およそ37~8キログラム の黄金を献上した。

   東大寺大仏建立の最中―鍍金用の金が不足 

   聖武天皇 望外の喜び 【大仏殿建立の金箔として使用した。】

     天平勝宝 ⇒ 天平感宝 に改元

     従五位上から従三位へ(7 階級特進)宮内卿となり さらに 「俄かにして河内守を加えられる」

  ⇒河内国交野郡に本貫地を移した

(7)一流貴族としての百済王氏

(8)百済王敬福の人物像が分かる史料

(9)河内の「百済寺」   百済寺復元図

 一流貴族の居住を示す遺物

  三彩壺、平城宮系軒丸瓦、胞衣壺と和同開珎「大領」など大量の墨書木簡、墨書土師器・墨書須恵器

  木簡の削りかす 事務処理が行われていた

 「天」の線刻のある壺など、溝から出土の祭祀に使用された一括土器群など

   【その他】本日の講義の続きは2023.8.19(土) 「歴史考古学の集い」堺市福祉会館で行われます。

         初めての人は入会金1000円が必要です。 参加費用は700円です。


「行基とその業績 僧侶社会での位置づけ」

<午後 行基について>

講師 堺・行基の会会長  若井敏明先生

①奈良時代の僧侶

 平城京とその周辺には1万人以上の僧尼がいた。

 一握りのエリート僧(宮廷や国大寺に居住)とそれ以外となっていた。

②奈良時代前半のエリート僧 道慈

 大宝元年(701)遣唐使に随って唐に行き、養老二年(717)に帰朝した。

③道慈在唐時の日本の仏教

 行基(669~749)とその集団の活動に対し禁圧強化を行った。行基は僧侶社会の「異端」とみなされた。

④行基の転身

 社会活動家行基の誕生

 神亀二年(725)山崎川の河中にある一大柱を見て山崎橋を渡す。

 畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。

 併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。    

 布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。

 郷里和泉での活動は檜尾池院、狭山池院、久米田院、鶴田池院等を建立

⑤道慈のその後

 人口の3割が死亡したといわれる天然痘の流行

⑥行基と聖武天皇

 これまでの建立の院院について聖武天皇から官司に摂録せずとして合法化することができた。

⑦大僧正行基とその波紋

 聖武天皇から民の手による大仏造営と大僧正任命を賜る

 

 

当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

 

 

行基が行った社会事業

山崎橋

長柄(架橋)

堀江(架橋)

昆陽布施屋

 

 

 

生家跡は知恵の文殊菩薩を本尊とすることから合格祈願で有名な家原寺となっている。